天皇の“お務め”を巡って、奇妙な対立があるように見える。
右派や保守系は、天皇の最も大切なお務めは神聖な祭祀である、
と強調する。
その一方で、国民との触れ合いには冷淡で、わざわざ被災地などに
お出まし戴く必要はない、などと言う。これに対し、左派やリベラル系は、被災地などにお出ましになって、
国民と触れ合われることこそが天皇の最も重要なお務めだとする。
しかし、これまで天皇が大切にして来られた祭祀については、
むしろ否定的。
国民と無縁な古臭い祭祀なんて、今後はいつまでも続けられるには
及ばない、と。
ほとんど正反対の立場だ。この対立をどう考えるべきか。
私は、天皇の国内に向けたお務めを、大まかに3種類に整理している。
①憲法に定められた国事行為。
②国民の思いに寄り添われること。
③皇室の神聖な祭祀に携わられること。これらのうち、①は憲法の規定によるものなので、
原則として賛否の対象にはなりにくい(問題視する場合は憲法改正論
という切り口になる)。残りの②③から、右派や保守系が③を重視し、
左派やリベラル系は②を重視するという構図だ。
しかし、どちらか一方だけを重視して、他方を軽視又は否定するという
態度は、正しくないだろう。そもそも天皇の祭祀は、一般の宗教家の祭祀とは異なる。
皇祖皇宗(こうそ・こうそう、皇室の最初の祖先=天照大神以降、代々の祖先)
への祭祀が中軸をなす。
祖宗(そそう、皇祖皇宗)と厳粛に向き合われる祭祀を通じて、
代々受け継いで来られた国民の為に誠心誠意お尽くしになられる
ご精神を、改めてご自身の御心にお刻みになる。
それは突き詰めて言えば、国民の為の祭祀に他ならない。
にも拘(かかわ)らず、実際に目の前で国民が災害などで苦しんでいても、
それには背を向けて、ひたすら宮中の奥深くで祭祀だけ型通りに
打ち込まれるとしたら、それは肝心な祭祀の“精神”そのものを
蔑(ないがし)ろにする振る舞いと言わねばならない。国民に冷酷であると同時に、祭祀の対象である祖宗をも裏切る
行為だろう。
従って、被災地へのお出まし等、国民との触れ合いを軽視する右派や
保守系の意見は、天皇の祭祀の本質を理解していないと言わねばならない。
一方、天皇の祭祀の本質が上記のようであれば、そのような祭祀によって、
国民へのお気持ちをより深め、清められる営みを、
軽視したり否定したりする、左派やリベラル系の動機がよく分からない。
日々、心身の清浄を保たれ、謙虚かつ真摯に祭祀に携わられることによって、
代々受け継いで来られた国民に尽くされる無私公正な精神を自ら
身に付けられ、その高貴な精神のご発露として、被災者や様々な
国民の身近にお出まし戴くからこそ、政治家や他の者からは
期待できない、絶大なお慰め、お励ましなどを、人々は天皇から
“受け取る”ことが出来るのではないか。②と③は、二者択一や相互に対立するものではない。
両者は、互いに補い合うもの、と捉えるべきだ。
実はその事実を、天皇陛下ご自身が、今年の元日のなさりようによって、
私共にはっきりとお示し下さっている。同日、午前5時半(早朝、最も寒い時刻)から、天皇陛下には毎年、
宮中祭祀中、1年で最初の行事である「四方拝(しほうはい、屋外にて
伊勢の神宮、山陵〔さんりょう=歴代天皇が葬られた所〕及び
四方の神々を遙拝〔ようはい〕される)」を行われる。
今年も当然、例年と同様に行われた(③)。
ただ、例年と違っていたのは、“同じ時刻”に、コロナ禍(か)の
影響で中止になった新年一般参賀(例年だと1月2日)の代わりに、
特にビデオメッセージが公開されたことだ(②)。
ビデオメッセージの公開開始のタイミングを、四方拝と「同時刻」
とすることに、天皇陛下はとても気を遣われたという
(読売新聞、2月17日付)。この点について、宮内庁は「言葉には行動が伴うべきだという
(陛下の)お考えの表れだと受け止めてほしい」と説明している。
ビデオメッセージで丁寧に語られた“おことば”の背後には、
陛下の敬虔(けいけん)な祈りの実践が裏打ちとして存在している。
或いは逆に、神への祈りの背後には、国民の為におことばの
推敲(すいこう)を丹念に重ねられ、せめてビデオを通してでも
国民に広くお気持ちを伝えようと、皇后陛下とご一緒に収録に向かわれた、
陛下のご誠実な実践が裏打ちとして存在している、とも言えよう。
両者はまさに一体なのだ。【高森明勅公式サイト】
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